ここで見たこと

絵描きのなんでもない日々です。トウキョー周辺。

本が選べなくてかなしい、なんてばかげたこと

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本が選べなくてかなしい、なんてばかげたこと。


久しぶりに小説を買おうかな、なんて仕事終わりに一番近い本屋さんに行って、藤原伊織の新刊チェックしよう、なんて思ったけれど藤原伊織は私が知るより先に鬼籍に入っている作家だから新刊なんて出ないんだよ。
すぐに気がついて憤って無心で新刊コーナーはじめ書棚を散策するも、手に取った本もぱらりと見ても「時間が必要だな」とか「今の気分じゃないな」って、結局見知ったすきな作家の名前ばかりを拾おうとする自分に嫌気がさして、もう宮沢賢治の新装文庫や安部公房坂口安吾でも買って帰ろうかと思うもそれも保守側のやけっぱちだよなあと自分に失望して、
もしかしたらこのままずっと読みたい本なんか見つからないんじゃないだろうかって失望、絶望、もうこれは絶望だ、こんなかなしい気持ちで本屋さんにいたことってない。
昔はあんなに読みたい本で溢れていたのに。

孤独を意識するとき必ず関わりや誰かのことを考えているように、
喪失が現れるとき、必ず在ったことが立ち現れている。影みたいに。骨みたいに。

自分はこうして素晴らしい世界への切符を失って感動の尺度が狭く矮小になってつまらなく生きていくのだろうかってかなしい気持ちで、この書店にいた時にいつも読みたい本が見つかったこの書棚だけ見て、駄目だったら宮沢賢治新装本買って帰ろう(あるのに何度も買ってしまう本があるならそれは宮沢賢治の詩集だ)と諦めて、あいうえおから始まる作家の棚を見ていて、ふらり。

どうして目に留まる本、そのときの自分に必要な本って間違いなくぴたりと見つかるんだろう。こんな品揃えの悪い書店にあってさえ。

「お」から始まる作家名の棚に私はそれを見つけて、直ぐに買って直ぐに読み始めて久しぶりに没入を本の魔法を味わって、安心した。読んだことの無い作家の名前も知らなかった本だ。

世界にはあらゆる表現が溢れているけど、そのときその自分に必要なそれというのは厳しく断定されていて、だからそのときその自分がそれに逢えたってことは本当にきららかな日々の魔法の一つだ。

久しぶりに本への活況が身についたので、今日はまた新しく読む本を揃えてきた。
大丈夫だった。
佳いものを心からたのしめる自分がまだいたという、その安堵がまたどんどんそこに行かせる。
めでたしめでたし、というあるひとときの話でした。
ポポクロ読む。

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