ここで見たこと

絵描きのなんでもない日々です。トウキョー周辺。

枯れない思い出≒ドライフラワー


 
 
 
 
 
革紐で吊るすタイプの、試験管の一輪挿しを買った。
吊るして、何かお花をいけたい。と思いつつ吊るしてすらいない。はじめは何をいれようかな。

…とか云ってる間に、
『いや、いま吊るさないとずっと吊るさないだろう!』
と思ったので吊るした。
キッチン上部戸棚みたいなとこ、滅多に開けないからそこに。活ける花がないので、ドライフラワーになった薔薇を活けた(したのでなく、なった)(帰省で水あげられないうちに、なった)。
10月の展示で、中学のときの同級生がくれたブーケの、真っ赤な薔薇。ほんとうの深紅。
深紅、というのは薔薇のために在ることばのようだね。
きれいなものは、枯れてもきれいだ。 
 
 
 
 
 未だ短い人生なれど、長年の友人、というものがいて、折に触れて会うわけだけれど、今夜もそんな夜だった。
彼女に見せている部分というのは、他のひとに見せている部分と、まるでちがっている。
きっと比較的、素(ひとり部屋にいる状態)に近いのだろう、と思っていたのだけれど、どうやら『こうありたい自分』というのを出しているようだ。つくっている、とか、目指している、という大仰でなく、自分はこうしたいんだ、という意志のような部分。
 
自問自答だと連鎖して循環して反問して情けない部分、彼女の問いに(ほぼ反射的に)答えたときに、『あ、自分、そうしたいんだ』って 思う。
 
ああでもこれ、面積の問題で、多かれ少なかれ、みんなにこうなのかもしれない。
『こうありたい自分』と、『行動する自分』を繰り返して重ねて、近づけて近づいてそうなっていくわけだけど、
作家仲間にはここ、友人にはここ、いわゆる『先輩』にはここ、愛でたいものにはここ、恋愛にはここ、仕事にはここ、Twitterにはここ、
というように、部屋が、面積が違うだけで、ぜんぶ同じことなのかもしれない。
 
 
ただやっぱり、いろんなことを共有してきて、云わずともわかる友人、というのは、占める面積が違うんだろうなあ。
様々なことを、深刻に議題にはしていないのに、私の中で、いろんなものが氷解した。理解した。すっきりした。判った。


書を捨てよ、町に出よう。っていうけど、書を捨てよ、ひとに逢おう。って感じ。書は捨てたくないんだけど。でも町に出ようってそういうことかもね。
外に出るの、性にあってます。







さ! 明日は似顔絵描きだから、がんばって起きるよ!
10時出発8時起き! あわよくばその前!
こういう日は緊張しすぎて無駄に早く起きてしまったり眠れなかったりする、aiでした。
ではまた。