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ここで見たこと

絵描きのなんでもない日々です。トウキョー周辺。

世界へ没入する集中力

  
 
ファンタジー小説を読み難くなった、というのは先週くらいに思ったことで、お茶を呑みながらぽろっと友人にこぼした。
 
見知らぬ世界をまるごと知っていく。決まりごとや、信心や、慣習や、文化や食事や考え方、生活の骨子。地球にない概念や、機構。
そういうものを咀嚼して取り込むのが、随分めんどうになってしまったのだろう、と思う。そう思う自分が淋しいな、とも。
すんなりと友人の同意をうけて、現代日本が舞台の小説ばっかり読んでるわ、と言いあった。
時代ものもすこし、めんどうなのだ。
どうしてこうなってしまったのだろう。
図書館で借りてきた米作家の異世界ファンタジーは、数段落読んだだけで閉じてしまったままだった。 
 
 
数日後、見知らぬものに触れたいような、空想の世界に飛び出したいような、そういう気持ちになったのだろう、ぱっと本の山から取り出して、お茶を呑みながら続きを読みはじめた。
なんて面白いんだろう!
辺境地帯の少女が、言いつけられた仕事をしながら、英雄譚を読んでいるところから物語ははじまる。現状をほんのすこし描写すると、すぐさま本の中の本の物語がはじまる。物語のなかの物語で、密偵の役割を果たす二人組が草むらに息をひそめている。一人が囮になってひきつけている間に、もう一人が報せに行く、という息を呑む佳境で、本来の読者の少女は現実に引き戻される。辺境の一族の風習と家族構成、少女の身上がけして愉快でないことが綴られる。呼びつけられた内容が逃げ出したくなるようなものだと知って、実際にそうしたときに、物語のなかでしかみたことのなかった、憧れのすばらしいいきものに出逢い、現状を捨てて飛び出していく。
そんなところまでぐいぐいと読んでから、あ、読めてる。と気がついた。
 
たぶんファンタジーってやつは、あんまり生活とかけ離れているから、時間と(気持ちの)ゆとりがないと読めないのだ。少なくとも、私は。
学生のとき、翌日のことなんて考えず、雑事なんてほとんどせず、ただただ見知らぬ世界を読み込んでいくことに時間をつかった。読んで、読んで、書いて、描いて、描いた。スーパーマーケットまで徒歩20分、電車は一時間に一本の田舎では、異世界に添うことが一番の娯楽だった。テレビは中学生のときに、すきなドラマだけみるようになっていった。高校生の終盤では、すっかりテレビをみなくなった。一時間。つい、みてしまうその一時間で、どんなに絵が描き進められるか、どんなに空想が深まっていくか、どんなに面白い物語を読み込めるか、知ったのだ。あの、空の広い、あたりまえに緑の繁茂する、過剰なもののない、星の降り込める土地で。緑の、雪の、空の、土の、鮮やかにすぎる限りないグラデーションとヴァリエーションは、あそこで知ったのだ。そこに不思議な出来事や、神秘的で威光ある生物や、交錯する歴史を加味すると、とんでもなく愉しく、楽しくたのしくなることを知ったのだ。
そういうことを思い返しながら、寸暇を惜しんで登場人物に親しんで、ぐいぐいと読み終えてしまった。
 
 
おもしろかった。
はやく続きが読みたい。
久しぶりの純ファンタジーは、心情の表現も主要の設定も、触れたことのないこまやかさで、とってもすてきだった。ひとに註釈する描き方だった。
三部作なので、今日は続き二冊を借りてきました。 
続篇の二冊目って、開いて、馴染みのひとたちが出てくると、「なつかしい」って気持ちになるね。
また逢えたね。あいたかったよ、その後どうしていたか、気になっていたんだ。 
 
 
こうして久しぶりに、世界へ没入する集中力を得たからか、それを思い出したからか、描きたい気持ちが、描き続けていたい気持ちが溢れて止まらない。読みたいと、描きたい、はつながっている。生活に美をみいだすことにも。 
 
おもしろいもの、惹きつけるもの、うつくしいものを知ることは、それを知覚できた時点で、希望を夢を憧れをもつことでもある。
『次は、私の番だ』って。