ここで見たこと

絵描きのなんでもない日々です。トウキョー周辺。

おじいちゃんの喫茶店

 
 
おじいちゃんの喫茶店が好きだ。
もとより喫茶店や、カフェでたらりとした時間を過ごすのはすきなのだが、経営しているのが男性で、老人となると、これはもうとんでもない空間になる。
おばあちゃんもおじいちゃんも、血のつながりをものともせず好きだ。相性もあるので逢ってみて苦手な方もいらっしゃるが、これは魚食がすきだけど苦手なものがある、とか犬をみるとうれしくなるけど苦手な犬がいる、とかそういうことと同じだ。この作家の小説はすきなんだけどこの作品はいまいちだったな、とか、小説がすきだけど苦手な作家もいるよ、とか、そういう話なのだ。
ともかく、性別に関わらず老人方がすきなのだけれど、そこに喫茶店が加わるととんでもないことになる。カレーに目玉焼きをのせたかのようだ。緑茶に苺大福だ。
ただ、おばあちゃんの喫茶店、ではそうはいかないのだ。
おじいちゃんの喫茶店にある、こだわりと、こだわりのなさ。
ゆったりと機敏の狭間の接客。一緒に年経てきたのであろう、床、壁や調度の木材、革、石、布、金属。饒舌と寡黙。メニューの明快さ。そういうものに隙や、抜けを意図せずにつくれるのは、おじいちゃんのなせる技だと思うのだ。ある程度の適当、無頓着。おばあちゃんがもし一連のお店の作業をやっていれば、どこか甲斐甲斐しさや世話好きな体が出てくるように思う。あと性。(独断と偏見、もしくは主観とはこういう)(カレーに目玉焼き、福神漬けにサラダにスープもでてくるかんじ、もしくは親戚の家で緑茶と苺大福をいただくかんじだろうか。放置されない)
 
 

先日久しぶりに行ったおじちゃんの喫茶店は、調度の配置が変わっていたけれど、紙の巻きメニューはそのままだった。
その街はほとんど経由でしか使わないので、駅から出ることは月に1、2度あるかないかなのだが、用事がありおりたった。家を出る前から、おじいちゃんの喫茶店に寄りたいとそわそわしていた。
カウンターには近所住まいらしい馴染みの老人(こちらも男性)が座っていて、店主のおじいちゃんと日常や昔のことや所感をつらつらを話し込んでいた。
そちらに背を向け、道路を見下ろせるかたちで、窓まで1mほどの円卓のひとつに座った。
ブレンドを一杯頼んで、30分の時間を充てた。このために早めに家をでたのだった。本を読み進め、時間を確認し、短い手紙を書く。そのくらいで丁度30分、カウンターに座り込み、常連と話し込む店主に声をかけ、お会計を済ませた(カウンターの老人に「おとなしいこだねえ」、店主に「珈琲一杯でもいいから、またきてね」と言われた)。そうして、未だ脳内地図に補完されていない道に見当をつけて用事に向かったのだった。
騒いでいた気持ちもすっかりすみ、心穏やかになっていた。次も来よう。また来よう。もっとゆっくり。
 
おじいちゃんの喫茶店はずるいと思う。
おばあちゃんではあの興味とそっけなさとこだわりとこだわりのなさ、それはきっと出ないのだ。
自分の性別に不満や不備はないが、私が歳を経てもああいうお店はつくれない。
おじいちゃんの喫茶店。自分にはなしえないユートピアなので、ただただ羨ましく思うのだった。
 
 
 
 
 
 
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