ここで見たこと

絵描きのなんでもない日々です。トウキョー周辺。

洞窟式湯船

 
電気を消して湯に浸かっていた。
 
雨と遠雷の鳴る音源を、防滴スピーカと共に持ち込んで、浴室の角に置いて反響させる。
換気扇は消して、扉をすこし開けておく。続きの間の電気もつけていない。
壁に据え付けの浴槽の角には、小さな明かりを置いていた。我が家にはランタンを模したキャンドルホルダーがあって、潰した円柱型のろうそくを当て込んで入れていた。四辺が透明硝子に囲まれているので、揺らめきはほとんどない。
機械質の雨音と、湯面に雫が落ちる音が混じる。遠く神鳴り。時折の鳥の声。極稀れに、実際の“外”からの、車や人の音が僅かに届く。
ほとんど視界の利かないなかで、水上と水面下に渡る自分の身体を眺めていた。灯りの前では白く大気の動くのが見える。
思考の端が生まれてはほどけていく。
確固たるものはなにもない。
雨音と、遠さと、薄ぼんやりした陰影と、手狭な空間で、「洞窟みたいだな」と何度も思う。
上がる心拍や、伝う汗や、ゆるむ輪郭や、耳や鼻が感ずるものや、目が捉える色味すくない視野をただただ追っていた。
明日朝起きたら散歩に行って樹でも描いてこよう、だとか、こうして記事にすることだとか、洞窟には行ったことがないけれど、記憶にある鍾乳洞やいつかの映像でみたようなところだろう、だとか、生物の根源の部分だとか、そういうことを考えていたような気もする(そもそもじっと考えるということや、まったく考えないということが、どれだけ可能なのだろうか?)。
ただ先述のように、直ぐにほどけて霧散してしまうので、思考とも閃きとも呼べない、夢や茫洋に近いものだったように思う。
「孤独は悪い奴じゃないよ」
って言っていたな。まったくこうしているとよく判る。
安らぎというのでもない、憂いともちがう、ただそこに在ること。
風呂からあがってふと、これは永劫変わらない部分じゃないか、と思い当たった。私がどうあろうとも変わりようない、感覚と思考の狭間。生きものの部分。関わりと縁遠い個の生。
 
そうだこれはあれに似ている。
夏の夜に、自宅からほど近いガソリンスタンドのコンクリートに寝転がって、星を見ていたこと。
冬の白い昼間に、自宅の裏の林で、厚着をして雪面に寝転がって、雪の降るのをみていたこと。
あの超自然、世界のうごきに組み込まれること。
お風呂の星空は手に入らないけど、またこうしようと思った。
 
 
あたためて気持ちよく乾いたベッドでぐっすりと眠った。
 
 
 

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