中性的な人について
また久しぶりの更新です。
ハロー六月。
五月は風のようでした。
身辺でいろいろあったり、〝完璧〟なピクニックをしたりしました。
あっという間だったー。
最近立て続けに好みの人間に出逢うことがあったので、「中性的な人」について考えていました。
一目みた瞬間、「ああもう大好きだ」と思ってしまうような、好きな形質の人間たちがいる。
一番顕著なのは、短髪で小柄で骨張った華奢さの50代オーバーの女性。パンツスタイル多め。仕事ができる。お洒落のセンスが良い。もうだめ。すき。憧れる。
それは気が合ったり、長年培った情愛があったり、一緒にいて落ち着いたり、趣味や傾向が似寄りだったりすることとは全く別の部分で発生して、瞬く間に切り替わって固定される。
これはもう習性のようなものなので、「そういう人がすきなんだなあ」くらいにしか思っていなかったのだけれど、先述のような格好良い女性と知り合う機会のあった翌週、また別の男性に会い思考の引き金が引かれた。
凛々しい女性、フェミニンな男性。
もしかして、中性的な人に弱いのかもしれない。
ぼんやりとそんなことを考えながら眠りについて、なんでだろうというところに一つ答えが出た。
女性なら共感コミュニケーションと暗黙の読み合い優位、男性ならコミュニティ間地位の推し測りと同調の日々の中で(形が少し違うだけで殆ど同じようなものではある。領域を侵さないこと、突出を避けること)、
その姿を体現していること。
今はジェンダー関連の話も活発なので、今大人になってある程度経っている人に限定はされるけれど、自己形成過程のどこかで「女らしさ・男らしさ」について思い悩むことがきっとあったろう。それが無くすっと自己性を受け入れた人が大衆行動向きだと思っているのですが。
揺るがせにならない自我の示しに沿って、蓮が水場をサボテンが乾燥地帯を得るように、〝楽〟を求めること、
要求と圧力と無理解の善意に取り巻かれても尚足場を固めてきたこと、
骨格や脳のつくりをはじめとする自性の形質と身の回りの前例たちに逆らって、欲求と理想をのせていくこと、磨いていくこと、磨いていること、
そして解りやすい認知を超えて煌らかしさを顕していること。
そういう、受け入れ詰め込む器としての賢さではなく、悩み抜き自己を獲得した知性、
道を逸れるのではなく共存しながらも自分の足場を持ち得た研鑽と思考、
尚自分をうつくしくあろうとする姿勢と実行動、
言い募れば種々あるけれど、その逃げなかった歴史、欲求に従う智略にどのようにも争い難くうつくしくこのましく感じる。
まあ実際話を聞いたら「特に何も考えずこうなったよー?」ってこともあるのかもしれないけれど。
情愛や性愛を超えて中性的な人間良いなあめちゃめちゃすきだなあというお話でした。
すきなものの話はやっぱり力が入るなあ。
今日も良い日を。