【“I HUB.”】
ハブみたいなひとになりたい。
酒と音楽と言葉遊びのすきな、年上の粋な友人とあるとき話していて、
私は、ハブになりたい、って言った。
世の中にはいっぱいすてきなものがあって、
私は挙げ連ねられないほど、あれもこれもすきだ。
薔薇の神秘すら感じる精巧さ精工さも、
パキラの威勢良く育つさまも、
流木の軽さと手触りと佇まいも、
巨木の捩じたシルエットも、付属する苔と剥落と蔦や草や芽や時間も、すき。
枝や根の、整合性のあるような、ないような、人にはずっと解らないような向きもすき。
早朝の湯船の、磨りガラスごしに熱のない光が差し込む様子も、
体温より高い湯にくるまれるのも、
あたたまってすっかりぼけた身体や浴室に冷水をかける、あの清涼も、
あからさまに疲れの弛緩するさまもすき。
咀嚼嚥下がすきだ。
麺がつるりと体内に向かう潔さもすきだし、
レバーペーストが味蕾にとろけるのも、
野菜スープから溢れる滋味も、
旺盛に肉を噛むのもすき。
器と食材がひきおこす、その瞬間の巡り合わせのうつくしさや間もすきだし、
お酒と歓談とでつまみつづけるのも、
しっかと身に入れる食事を摂るのも、
丁寧に煎れたお茶と、ゆっくり食べるごはんもすき。
つくるのも食べにいくのもすき。
誰かと食べるごはんは、なによりすき。
細胞ふるわすような低音も、
光と虹が拡散するような鍵盤の音も、
千変万化のひとの声も、すき。
内面と音をとろけあわせて、深くもぐってくように聴くバラードもすきだし、
生きにくいからって謳い、でも進む邦ロックもすきだし、
クラシックのとうていつかみきれない悠久の遠大も、
血も肉も湧きかえるようなインストもすき。
弦も管も、勿論打楽器もすき。
言葉の妙なる組み合わせもすきだし、
小説の最後にいきつく、それが描きたかったのであろう、そのためにぜんぶ必要だったのであろう整合と軌跡と奇跡も、
ある瞬間にひとの口からこぼれる、どんなロジックも到底叶わない、言葉にするのも足りないくらいの、ただの、唯一の感情だってすきだ。
最小の手荷物、あるいは手ぶらでする行動の、精神にまで及ぶ身軽さもすきだし、
あらゆるもし、に備えた安心万全の重い荷物もきらいになれない。
ロングスカートが脚にまといつく涼しげな感触とか、
薄明、薄暮の羽衣みたいな夢色とか、
気持ちをよそゆきにしない友人たちとの、適当とも(そう適当とも)呼べる、当たり前に忘れてしまいそうな、何度も思い出しそうな時間もすきだ。
それぞれに違う誰かと、経験も役立たずに距離をつめてく道程も、
固着されたかのようにみえる関係に、共有や会話やあたらしいものや過去を以て、光のあたらなかった見えなかった側面を見いだすのもすき。
無機物の無頓着さも、
有機物のもつふしぎにうつくしい、それが必要とされた進化をたどるのもすき。
金属や樹や革の経年変化も、
まっさらなノートもすき。
そしてそう、色。
なんにもなくてそれが完成である最初の0の白紙も、
そこに落とす、いちばんいまの自我にかなっている、と思われる色も、
あまりに相性ばっちりで、それ以上手を加えたくないような2色も、
混じったのかそのものなのか、もはや離れえようのない3色の絶対も、
把握しきれないタイミングと筆致と機微にみちたあらゆる色の画面も、
それを覆う新たな1色も、
もう手を入れられない絵も、
まだまだ終わらない絵も、
いつか描きおこす絵も、
何度も描くその絵も、
まだない絵も、
ぜんぶぜんぶぜんぶすきだよ。
林檎100%のジュースや、
舌から喉を抜けるアルコールや、
もはやお出汁みたいなお茶をすきなように、
色そのものと色が生み出し引き出す呼び出す事象がすきだよ。
ただ私という生き物ひとつで、生きることはこんなにもたのしくてすばらしくてうつくしい。
たくさんすきなひとがいて、
それぞれすきなものがあって、
なにかを共有してなにかを理解しえないそのひとたちに、
逢ってなかったあのひととか、
きっとすきだろうあの味とか、
興味をもちそうな絵とか音楽とか小説とか、
こんなにすてきなデザインプロダクトとか、
知りえなかったある時間とか、場所とか、
そういうものを、繋ぎたいなあ。
「I HUB. だな」
そうか、私は、ハブになりたいのか。
そんなわけでそれから、私は繋ぐことを意識しているように思う。
これは、“展示によせて”ってことになるのだろうか。
(原宿に【“I HUB.”】という絵を展示中)
いつも私は「みるひとのすきにおもってくれればいいよ」と言い、思い、それは実際変わらない。
のだけど、まあこういう想いもありますよ、ってことでひとつ。
よろしくおねがいいたします。
すべてのいとしいものと、これから知るすてきなものへ。
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