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ここで見たこと

絵描きのなんでもない日々です。トウキョー周辺。

実家の、存在が全肯定される、『ただいれば佳い』感覚はすごいなと思う。宗教の目指す終着ってあれでしょう。


 
 
夕飯にお餅を焼いていた。
父から電話がきた。
数分後、私は「お餅が焼けたから食べていい?」といって暗に終話の提案をした。 
 
電話は一旦切られたし、たいへんおいしくお餅と、大根と豚肉といんげんのスープ(塩味鰹出汁、風味はごま油で、桜海老を散らして)を食べることができた。 
 
二度目の電話もつつがなく終え、あれやこれやを片付けながらもぼんやりと考えた。
もしあれが、とってもとってもすきなひとからの電話だったら、私は焼いた餅の存在など匂わせず、できたてほかほかのスープが冷めるのも厭わず、電話を優先するだろう。
  
 
とくにそれに関して、父が不憫であるとか、私が現金だなどと評するつもりはないのだ。
そもそも、そういう(『とってもとってもすきなひと』から電話のかかってくる)予定などないのだし。
  

 
帰省したとき、私はなにもしなかった。
喜ばれるようなことも、役にたつようなことも。
いわゆる『善き隣人』ではなかった。
ただただ、そこにだらだらとうとうとと、とうとうと、存在していた。
それがゆるされる、或いはそうであっても好まれる、実家というのはなんとも不思議な場所だ。
私の身がどこにあっても、『善き隣人』であること、役に立つこと、喜ばれるようなことをすることが求められるというのに。
実家(又は祖父母宅)というのは、まったく治外法権で、いわゆる『世間』(実家との区別のため、便宜的にこのあるかないかわからない言葉をつかう)の理屈が通用しない場所なのだ。
そのささやかな習慣、長らくの文化ひとつとっても、実家というのは、へんな場所だよな。と思う。 
 
 
 
在ること、好意がなんの前提もなくすっぽりと信じられている場所。
 
 
そんなものを『電話を優先させるだれか』と私もつくるのだろうか?
なんて考えは途方も無く未知なので対して続かず、
実家から自宅への帰宅の電車で、『2〜3時間くらいの中距離の電車で、イヤフォンの片方同士を分け合って、ただただ言葉も交わさずお互い本を読んだり、なにかを書き付けたり考えごとをしたりして、おんなじ曲を聴きたいな』『音楽の選択権を与えたり、与えられたりして、お互いのお気に入りや、未知を共有したいなあ』(たまに「この曲すき!」とか「いまのとこかっこいい」など言葉を交わす)なんて、実家よりずっと揃えやすそうなカードの妄想をして、帰ってきたのだった。 
 
 
おいしいスコーンを買ってくるのを忘れた。 
 
 
 
 
 
 

 

 
 
 

(タイトル、帰省からの帰省中の電車で、Twitterへ) 
(メモ。2012/1/5、1:22時点、カウント12933)