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ここで見たこと

絵描きのなんでもない日々です。トウキョー周辺。

迷い込む者と親しき者と惹かれる者だけの


 
今日、久々に中学・高校時代の友人から電話があって、おおひさしぶりー、なんて。
「牙がそがれちゃったかんじ」らしい。
 
 
高校卒業したてくらいのころ、私はある閃きを妄信していた(いまでもそれは間違いないと思ってる)。
根拠が自分に依らない自信の話で、「すきなものがたくさんある私が、これが良いとおもって発信するものが受け入れらないわけがない」というもの。
 
 

 
たとえば緑地だったり、雪原だったり、薔薇であったり、ストールだったり、豆乳だったり、身体の一部の様子だったり、アインシュタインのあの写真だったり、元素の名前だったり、白かびのチーズだったり、もう解散してしまったあのバンドのうつむいた上目と韻だったり、ネコ科の動物の手の甲のへこみだったり、あたたかいルイボスティーだったり、真っ赤なカーテンだったり、鯖の皮の焼ける音だったり、ぱりぱり、小瓶に入れたアーモンドだったり、色 あらゆる色だったり、あの場所だったり、あのひとの気遣いだったり、そのひとの笑顔だったり、和だったり洋だったり輪だったり、あるでしょう。


そういうものすべてに それをすきなひとっている。
あるものはまったくの数人かもしれないけれど ほとんどのものには、数を表記するのさえばかばかしいほどのフェチストやファンや心酔のひとが いるものだ。
わたしはだれかとおなじ感覚を持っている。
すきなものの数だけ、編み目ひろがりに途方もなく。

だから、わたしが心底いいでしょう、ってだした表現が ひとりぼっちなわけないんだ
それはいまでも思うよ。 

 


 
 
もうそんなことを考えなくなったのは (その件に関して)きっと対話での補強をしなくてよくなったせいだ。
当時の苛烈は私にきっとひそんだままだし 自分の未熟さに それどころじゃあない。
 

長塀の向こうのお屋敷みたいに
小道の脇の洋館みたいに
薮の先の原っぱみたいに
迎え入れなくなったわけじゃない
 
たくさんの招待状は書かなくなった
すてきな季刊誌の購読と 友人への便りを招くだけ
  
  

 

今朝考えていたのは
表現方式それぞれに 性格じみた性質があって、選べば共についてくること。
善悪善し悪しはないし、完成度とはベクトルの違うはなしだ。
 
 
水彩のペンの 油の 写真の 塑像の 
オペラの(メゾソプラノの)
島根の神楽の
芝居の役の 美術の 制作の カメラの
分筆の 身体の 音の
ヴォーカルの ギターの ドラムの ベースの キーボードの
その性質に惚れ込んで その性格といきていく 
 
 
生クリームの𨦺口の絞り口のかたちと一緒だ
出来は形のせいじゃない
でも その性質をあいして その形でだしていくんだ
  
インプットアウトプット
 
 
  
「誇りがもてなくなるから」と私は言って 
 
なんだかそういう話をした日だった。  

迷い込む者と親しき者と惹かれる者だけの 最近はわりとそういうかんじ。
絵にしろいきかたにしろ交遊にしろ 芯のつよさ、たしかさ、しなやかさ。
永劫つづけていくための、ふてぶてしい穏やかさ。
あの炎じみた感情は消えていないのだから 装置をつくるんだ
 
 
なんだかそういう日だった