ここで見たこと

絵描きのなんでもない日々です。トウキョー周辺。

「森村泰昌展 -なにものかへのレクイエム 戦場の頂上への挑戦」


おはようございます。


なんだかツイッターやmixiばっかりで こちらがご無沙汰な感じ。
反応あるのがたのしいんだろうなあ。
でも、こっちのうらぶれ具合(?)もすき。だれも観てないんじゃないか、みたいな。実際そんなことないんだろうけど。


あちらこちらでドオープンなので、一カ所くらい、発信してるんだけどものすごくプライヴェートな場所って必要な気がするのー。秘め事? そしてそれは必ずしもここである必要はないし、きっと私はブログだとかそんなもののことだけを指しているんじゃない気がする。



私は とても感情が激しいいきもの(自他ともに認める、そうでないひともいる)なので、も、淋しさもめっちゃ強くて。笑
ネット無しのオフでひとに逢って、mixiやってtwitterに呟いて、やっと最近それで、バランスがとれてきた気がする。
私のさみしさは、他人や自分を、食いつぶすよ。凶暴。厄介。

ま ひとりでいたがりもするんですが。それもまた熱烈に欲して。




この間、東京都写真美術館で「森村泰昌展 -なにものかへのレクイエム 戦場の頂上への挑戦」を観てきました。

彼の作品を生で観るのは はじめて。
2フロア使っての、4部構成の展示でした。

森村泰昌アインシュタイン、萌える。


展示・作品のモチーフになっているのが、歴史に絡む人物や事物ばかりで、疎い私はほとんどの人物・事件を知らなかった。
くやしい。
知識がないことを こんなに呪ったのははじめてだ。
こうして生で、現行の認知の作品・邁進の画家の作品が観れているのに、リアルタイムでそこにいれるのに、感じられるのに、考えられるのに、ファーストコンタクトでの感情が戸惑いだなんて、悪夢だ。悪辣だ。
燃えるように悔しい。だって私はそれを知らない。深読みも推察も、風刺や皮肉への笑いも、発想への感心も、およそ考えうるリアクションを返せない。私に知識がなかったから。

その展示は5/9、今日までなわけですが、またいつか、森村泰昌の展示を観るときに、もう少し賢い自分でいたいなと思った。
バランスの良い学習てのは、だから必要なんだ、とはじめてに近い納得。



ああ悔しい。
作品そのものもね。やっぱりたくさんのひとに認知され支持されている作品はちからがある。

私がいま、写美のあの素敵な壁、もし貸してもらえても、作品が壁に負ける。

ああ悔しい。
もっともっとでまだまだだなと 思った。
悔しい。
すてきな展示でした。



《ウケるかウケないかとは無関係にやらねばならないと感じる世界を持っていのが芸術です》

《でももっとこわいことがあるんだ。おとなになるにつれて、この絵を「こわい」とだんだん思えなくなるってことです。こんなこわいことないよ》

《世の中が正しいと教えること、みんなが賛成していること、あるいは今流行っていること、こういったことには、私たち、あまり疑いを持ちません。それがあたりまえのことと感じて、あっさりと受け入れてしまうことが多いようです》
《知識をたくわえることは大事ですが、それにしばられていては、なにごともおもしろくならない》


ぜんぶ、森村泰昌のことばです。

私が彼を知ったのは高校生のとき、子ども向けに『芸術』とはなにかを書かれた本を読んだとき。その本の著者だったのです。
ぐらぐらきた。
いわゆる現行の、新進の作家だと知ったのはだいぶあとになってからで、きちんと作品観たのも、今回がはじめて。


作家の考え、理念、思考思想や 経歴(思考の道筋・多様さを示すことが多い)を知るって、大事なんだなあ。
もっともっと知りたいな。たくさんのこと。


行って良かった。
写美、だいすきです。